羽白熊鷲打倒のため
立ち上がった神功皇后
潮干玉と潮満玉の霊力により
蜷貝の城を築城する

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美奈宜神社は神功皇后摂政2年(西暦202年)に第15代仲哀天皇のお妃様、神功皇后により創建されたお社です。皇后は身籠っているにも関わらず、武内宿禰とはかり新羅に遠征し、新羅降伏後筑紫に帰って応神天皇をお産みになりました。古代史における女将軍の象徴とも言える人物です。2世紀はまだ弥生時代です。この時代は日本列島で稲作が浸透し始めたのとあわせて戦乱などが起きるようになった時代としても知られています。実際、弥生時代中期頃の遺跡からは、戦乱の痕跡を示す出土品が多く発掘されています。近隣の平塚川添遺跡では数百人が生活していたと証明されています。まだ仏教が伝わる前、神道だけの時代です。漢字も伝わっていません。この頃は神話や伝説などを全部口伝えで伝えていました。とても神秘的な時代です。その口伝えの伝承が現在にも伝わり、美奈宜神社の創建に深く関わっています。

 朝倉の古処山には羽白熊鷲(はじろくまわし)という熔鉄の民が住んでいました。翼を持った鳥のように軽々と動き回ることのできる山岳系人物で、皇命に従わなかったと日本書紀にも記されています。秋月周辺にある荷原と、「荷」がつく地名は、羽白族が大きな荷物を運んでいた姿から付いたと伝えられています。製鉄の資材を人力で運ばせていました。また、事故も絶えず、人手不足を補うために集落の村人をさらい、また作り上げた刀を試すために人里を襲い村人を困らせていました。また古事記では仲哀天皇は神に呪い殺されたと記述されていますが、小郡市で陣営を敷いた時、羽白熊鷲の流れ矢に当たって崩御したという伝承が残っています。神功皇后は村人を救うことはもちろんですが、夫君の敵討ちとして攻め入ったとも考えられています。

 皇后は、この地で神様にお祈りされて「この潮干玉を使って川の水をからにし、川蜷に頼んで一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉を使って、一度に水を入れ水攻めにして滅ぼしなさい」とお告げになられました。この玉は志賀海神社の祭神でもある阿曇磯良が海底の竜宮城から授かった、潮の満ち引きをコントロールできる霊力を持ったものです。皇后が筑紫に着いたころ阿曇磯良より献上されています。この霊力により一日で城を築きあげました。この後の三韓征伐の時にもこの宝珠は大活躍することとなります。

 カワニナに頼んで一夜で城を作ったという伝承が暗示するのは、夜陰に紛れて水軍が陣営を一晩で整えたということになります。夜が明けると突然陣営が出陣して、たくさんの軍船が集結したのです。またかつて筑後川は干満の差が大きかったので、それを利用して川の水を堰き止め、敵が攻撃してきた時に水攻めしたのでしょう。皇后軍の作戦は上流にいる羽白熊鷲を狙って小石原川と佐田川の二水系から挟み撃ちしました。大已貴神社にいる本軍は敵の総攻撃を避けるため、一夜城を作り戦力を分散させ、一気に攻めあがったのです。逃走に逃走を重ねて、朝倉市の寺内ダムの所でついに矢に倒れました。そして、この地は作物の実る静かな平和な村となりました。

 この後、三韓征伐の航海中船中で素戔嗚命、大己貴命、事代主命の出雲三神に戦勝祈願をしました。神様のご利益もあり、見事新羅を降伏させ、身重だった神功皇后も無事に帰国できました。感謝の意を込め出雲三神をお祀りするため、神功皇后はお社を建てようと思われ、肥前国高橋の津から1羽の白鷺をお放ちになりました。「白鷺の降りた所に、お社を建てたいと思います。どうぞ、その場所をお示しください。」と申されました。白鷺は空に舞い上がり、筑後川に沿ってしばらく飛んだ後、こんこんと清水の湧きでる所に舞い下りました。皇后は、そこを白鷺塚と命名され、その近くに神様を祭るお社を建てられて蜷城(になぎ)を美奈宜(みなぎ)とあて、美奈宜神社と呼ばれました。また川蜷が守ってくれた村里をニナシロと呼びました。ニナシロがだんだんなまって、ヒナシロという地名になったといわれます。1300年初頭の宗像大社縁起にも筑前国蜷城(ミナキ)とフリガナ付きで記載されています。この地区は古くは下座郡(しもつあさくらのこほり)と呼ばれ、美奈宜神社はこの地区の守り神となっています。