神功皇后は蜷貝で築城し
羽白熊鷲を征討
西暦202年美奈宜神社を創建

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ご祭神

●美奈宜神社
 素戔嗚命(厄除・健康のご利益)
 大己貴命(縁結びのご利益)
 事代主命(商売繁盛のご利益)

●白峯神社
 崇徳天皇(悪縁を切りのご利益)

●淡島神社
 淡島様(安産・婦人病のご利益)

由緒

神功皇后により
羽白熊鷲を征討し、
蜷貝で城を建立した聖地

 弥生時代後期、この地の村人は古処山に住み、翼を持った鳥のように軽々と動き回り、皇命に従わない羽白熊鷲(はじろくまわし)という山賊に苦しめられていました。第15代仲哀天皇のお妃様、神功皇后はこの危機を救うため、神様にお祈りされて「この潮干玉を使って川の水をからにし、川蜷に頼んで一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉を使って、一度に水を入れ水攻めにして滅ぼしなさい」とお告げになりました。これは敵の総攻撃を避けるため一夜城を作り戦力を分散させ、大已貴神社にいる皇后の本軍が一気に攻めあがる作戦だったのです。羽白熊鷲は逃走に逃走を重ねて、朝倉市の寺内ダムの所でついに矢に倒れました。
 神功皇后摂政2年(西暦202年)神功皇后は三韓征伐から帰国後、航海中船中で祈願した素戔嗚命、大己貴命、事代主命の出雲三神をお祀りする場所を決めるため、肥前国高橋の津から1羽の白鷺をお放ちになりました。白鷺は空に舞い上がり、筑後川に沿ってしばらく飛んだ後、清水の湧きでる所に舞い下りました。
 皇后は、その近くに出雲三神を祀るお社を建てられました。社名は蜷城(になぎ)を美奈宜(みなぎ)とあて、美奈宜神社になったと伝えられています。

天平二年(七三〇年)
聖武天皇より勅使参向の
延喜式内名神大社

 奈良時代、天平2年(730年)、渤海の王が奈良の朝廷に進物を献上するにあたり、特別の臨時祭を斎行されました。聖武天皇の勅命により美奈宜神社には勅使が参向され、渤海の進物の一部を献納されました。全国8万社ある中、わずか285社しかない名神大社の格式をいただくことになります。今後名神祭が行われる度に勅使や国司が勅命を奉じて参向する神社となります。
 延長5年(927年)醍醐天皇の御代には神社史最古の範典の延喜式に記載され格式の高い式内社にも選ばれています。平安時代には藤原氏直轄の神社として栄華を極めていました。また筑前国延喜式内同格10社(宗像大社・織幡神社・筥崎宮・住吉神社・志賀海神社・志登神社・筑紫神社・竈門神社・麻手良布神社・大已貴神社)が本殿裏手に祀られており、格式の高さを証明しています。

変遷

 鎮西府を務めた筑前守藤原長経の嫡子、長胤は朝廷より従五位下大夫進の官位を賜りました。また秋月初代当主種雄より内藤の姓を賜り、弘安2年(1279年)に内藤として初代祭主に就任。藤原から内藤に姓を改めてより現在の宮司は世襲奉仕として25代目に当たります。
 延元元年(1336年)年菊地武敏軍と足利尊氏の先陣小弐頼尚軍が戦った筑後川水城渡の戦で戦火に遭い、社殿宝物記録類の一切を消失し以来衰退する処となりましたが、足利尊氏は神慮を恐れて社殿を再興しました。
 また永正6年(1509年)秋月城主秋月伊豫守種時が社殿を再建し神輿及び清道旗を奉納し、神幸行列の先駆として現在まで継続されています。慶長6年(1601年)黒田長政公の信仰は篤く、社殿の造営があり、下座郡総社と定められました。

 元禄15年(1702年)には現在のご神門が建築されています。元禄17年(1704年)に現在の石鳥居が建納され、貝原益軒の妻江島の筆にて柱の銘が刻まれています。
 文政11年(1828年)に大老黒田播磨公により現在ある社殿に改修されています。弘化4年(1847年)には1650年祭を執行しています。明治30年に縣社に昇格し、現在に至ります。