日本最大の怨霊となった
崇徳天皇

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崇徳天皇の悲運

祭神の崇徳天皇は第75代天皇です。父の鳥羽上皇は崇徳天皇を、我が子でないと疑っていました。実際は叔父の白河院の子どもだったと言われています。時の上皇が息子の嫁である皇后を懐妊させてことは日本の歴史上先例のない不祥事でした。崇徳天皇は出生から悲劇が始まっていたのです。崇徳天皇は上皇になった後に源平の戦いに巻き込まれることとなります。1156年保元の乱で源義朝を率いる崇徳天皇は、平清盛を率いる後白河天皇に敗れてしまいます。

讃岐「林田」での暮らし

その後ほとんど罪人のような扱いで讃岐に流され、林田の雲井御所で約3年過ごされました。この3年間は侍女の綾局に子ども「顕末」を授かるなど穏やかな暮らしだったと伝えられています。その後鼓ヶ岡御所のお移りになられますが、そこから仏事にのめり込み生活は一変します。せめて写経だけでも京都に置いてほしいと懇願しましたが、後白河法皇は呪いの写経と考えこれを拒絶します。この写経は五部大乗経と言われ約190巻もあり、書き終えるのに3年も掛かった大作です。これに怒った崇徳天皇は今後、髪に櫛も入れず爪も切らず生きながら天狗になったと言われています。皇統打倒を宣言し「天下滅亡」を唱えなます。しかし最後までと京都の地を踏めることは出来ぬまま、讃岐に移って8年、1164年46歳の若さで崩御しました。

怨霊となった天皇

その後、後白河院の身内が次々と亡くなる、京都の大火による大極殿焼失など、京都で多くの災いが起こります。崇徳上皇の祟りと言われ日本史上最大の怨霊となりました。天皇の祟りは前例がなかったため、他とは比較にならない怖い怨霊と言われました。崇徳天皇の怨霊を恐れることは代々天皇に引き継がれることとなります。その祟りを裏付けるかのように崇徳天皇命日の節目ごとに日本に大きな災いが起こります。

没後20年文治元年(1185年)壇ノ浦の戦い、平家滅亡、子どもの安徳天皇入水
没後100年文永5年(1268年)元寇、日本滅亡の危機
没後200年正平19年(1364年)南北朝動乱、皇室が2つに割れる
没後300年応仁元年(1467年)応仁の乱、京都が焦土と化す
没後400年永禄8年(1565年)室町幕府滅亡、織田信長筆頭の戦国時代に入る
没後500年明暦3年(1657年)明暦の大火、江戸で10万人以上死亡
没後600年明和4年(1767年)明和事件、言論弾圧により朝廷と幕府が対立
没後700年元治元年(1864年)幕末動乱
参考文献 竹田恒泰著「怨霊になった天皇」

朝廷との和解

この歴史を恐れた孝明天皇は崇徳天皇に京都にお帰りになるお社を建てる計画を立てますが、志半ばで崩御されます。この意志を受け継いだ明治天皇は天皇に即位する前日に京都に白峯神宮を創建。ここで初めて崇徳天皇は帰郷し、朝廷との和解を遂げたと伝えられています。崇徳天皇の御製「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」は有名ですが、明治に入るまで約700年の時を越えて実を結ぶこととなります。明治に入って崇徳天皇は負の怨霊から一転、近代国家の守り神として祀られることとなります。没後800年の昭和39年、讃岐の白峯御陵の山麗にある林田小学校は不審火で全焼してしまいますが、以前の天下を揺るがす災いに比べれば軽傷だったと考えられています。また崇徳天皇は初め京都の粟田で廟として祀られたことから、神社に初めて祀られた天皇とも言われています。

同じ「林田」の地に建立

ここ美奈宜神社は崇徳天皇が3年間過ごされた同じ地名の林田に鎮座します。ここの白峯神社の社殿には安政2年(1855年)再建と彫られ、京都の白峯神宮よりもずっと早く建てられていたことがわかります。崇徳天皇の怨霊を鎮めようと唯一穏やかに過ごされた林田の地に建立されたのでしょう。明治45年再建記念に奉納された鳥居が現在も残っています。
 ご祭神の崇徳天皇は、讃岐の地で一切の欲を断ち切っておこもりされたことから、白峯神社は断ち物のご利益があると信仰されてきました。
また、戦によって心ならずも寵妃阿波内侍とお別れにならざるを得なかった崇徳天皇は、人々が御自身のような悲しい境遇にあわぬよう、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶切って下さいます。男女の縁をはじめ、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切るご利益がございますので、ぜひお参りください。